はじめに
このコーナーでは、認知症を持つ人たちとともに展開されているさまざまな活動を紹介していきます。いろいろな活動を取り上げる前に、第一回の今回は、本人の発信や活動が日本でどのように始まってきたのか、振り返ってみたいと思います。
本人による発信のはじまり
日本で認知症のある本人が自ら発信を始めたのは、それほど昔のことではありません。茨城県の女性が、初めて公の場で実名とともに認知症の体験を語ったのは2003年のことでした(報道では仮名)。そして、本人発信や活動の流れが活発になってきたのは、2010年代に入ってからでした。
一方で、海外に目を向けると、アメリカのロナルド・レーガン元大統領が、アルツハイマー病になったことを公表し、話題になったのは1994年。その7年後の2001年には、オーストラリアのクリスティーン・ブライデンさんが、ニュージーランドで開かれた「第17回国際アルツハイマー病協会国際会議」で、認知症の本人として初めて講演をしました。同じ年、アメリカのモンタナ州に11人の認知症のある本人が集まり、DASNI(Dementia Advocacy and Support Network International:国際認知症権利擁護・支援ネットワーク)が発足しています。
日本に話を戻すと、冒頭の女性の発信と同じ年に、クリスティーンさんの著書、『WHO WILL I BE WHEN I DIE?』(98年)が『私は誰になっていくの?』として日本で出版され、クリスティーンさんが初来日。翌2004年には、北海道雨竜郡北竜町長の一関開治さんが、認知症と診断されたことを明らかにして辞任するという出来事がありました。一関さんはその後、著書などで自身の経験を語る活動もしています。
そして、社会から大きな注目を集めたのは、同年に京都で開かれた「国際アルツハイマー病協会国際会議 京都 2004」でした。クリスティーンさんが再来日し、「私たち抜きには何も始まらない」と題し講演。この会議には、各国の認知症のある本人が参加したほか、日本からも参加し、福岡県の越智俊二さんが、実名で認知症であることを明かし撮影もOKで講演するなど、日本の認知症を取り巻く状況が大きく動くきっかけの年となりました。
2005年には、長崎県の太田正博さんが、主治医や作業療法士とともに講演活動をスタートするなど、日本でも実名で発言をする人が続いたのです。
よりよい社会への活動
認知症をもつ本人の視点を、介護にも反映させようという動きも出てきました。でも、認知症というと「何もわからなくなる怖いもの」という、人々の心の奥底にある偏見はそう簡単には変わりません。
そんな中、2010年前後から、「認知症になったからといって、何もわからなくなるわけではありません」と、認知症になった本人が声を挙げ始めました。2012年には、認知症の本人とパートナー(※)が呼びかけ人となり「認知症当事者研究勉強会」を開始。それは、認知症を持つ本人と、医療福祉関係者、ジャーナリスト、行政関係者、家族、一般企業の人、いろんな立場の人たちが膝を突き合わせ、自分のこととして、認知症になっても生きやすい社会について考える場でした。
勉強会に集った認知症をもつ本人たちが、やがて海外の当事者活動からも触発されて「日本認知症ワーキンググループ(JDWG)」を設立したのは、2014年のことです(現、一般社団法人日本認知症本人ワーキンググループ)。立ち上げ時の共同代表は、鳥取県の藤田和子さん、埼玉県の佐藤雅彦さん、神奈川県の中村成信さん。メンバーは認知症と診断された40歳〜72歳の11名でした。存在を多くの人にしってもらいたいと記者会見も開き、厚生労働大臣に認知症施策に関する要望書も提出しました。今も、「認知症になってから希望と尊厳をもって暮らし続けることができ、よりよく生きていける社会を創りだしていくこと」を目標に掲げて活動しています。
(※)サポーターや支援者という呼び方ではなく、一緒に歩んでいく人という意味合いを含め、こう呼んでいます。
ともに、できることから一歩ずつ
JDWGの設立当初からメンバーに加わった、宮城県の丹野智文さんは、2015年には藤田さんといっしょに、首相官邸で安倍首相と面談もしました。その後、地元仙台市で、認知症をもつ本人のための相談窓口「おれんじドア」を立ち上げています。2016年には、仙台市で丹野さんたち、認知症本人の声を生かした「認知症ケアパス」もつくられました。
その後も、2017年にふたたび京都で開催された「国際アルツハイマー病協会国際会議」を経て、JDWGの活動に限らず、認知症をもつ本人が主体性に動き、周囲の人たちとともに「〜したい」を実現していく活動が、いろいろな地域で展開されるようになっています。そこで出会った本人どうしがお互いに元気づけられながら、発信したり、あらたな活動を立ち上げたりと、リレーのバトンを繋いでいるところです。
「認知症をもつ本人の笑顔が、家族の笑顔につながって、その家族の笑顔がまた、本人を笑顔にするんですよ」と、丹野さんは言います。
いろいろな立場の人たちがお互いに影響しあって暮らしている中で、特定の人だけの暮らしやすさを追求したとしたら、他の人たちにとっての暮らしづらさに気づけないかもしれない。そんなあたりまえの問いを、改めて社会に対して投げかけてくれた、認知症をもつ人たち。その発信が、医療や介護についての議論だけでなく、認知症になっても生きやすい社会へと、視野を広げてくれたことは、間違いありません。
このコーナーのタイトルは、「認知症とともによりよく生きる」。そのために各地で、自分にできることから始めているさまざまな活動を、ご紹介していきます。