ケアを啓く

認知症のある方々が暮らす環境をより普遍的なものにするために「ケア」をテーマにしたインタビュー、フィールドワークから考えていきます。

ケアを啓く

連載開始にあたり

はじめに

 明治時代、盲唖学校という学校組織が全国各地にありました。現在でいう盲学校、ろう学校、特別支援学校の原型です。このことを人に話すと、多くは「そういう学校があったんだね」とおっしゃいます。そう、すでに記憶の彼方にある学校です(さらに詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。参考:『京都盲唖院』とは?(著者ウェブサイトに飛びます))。
 
 わたしはこの学校を通じて、盲人やろう者といった障害者がどのように認識されてきたのか、またかれらが社会の中でどのような活動をしてきたのかを研究しているものです。
 かれらを取り巻く環境は多くの見方があります。たとえば、障害者は前世の悪い行いによって生まれてきたのだという近世の因果応報的な差別を受ける対象でした。また、近代のチャリティー(得られた収益を社会のための事業に還元すること)やフィランソロピー(社会貢献)の対象でもありました。このようにかれらは、文化・社会・国家・制度といった大きな枠組みに捉えられていました。同時に、家族や組織という群のなかで生きる個人としても在りました。そこには、かれらは衣食住をどのように充足させ、人生を生ききるのかという根源的な問題があったのです。
 これは、現代の認知症にも共通するテーマではないでしょうか。明治以降ではそれを「老耄」(ろうもう)といいましたが、病人と同じ扱いをし、家族による保護、施設への入所を定めるといったマイナス・イメージが強くありました(新村拓『痴呆老人の歴史』120頁)。そうした介護の実態は、戦前・戦後を通じて当事者の尊厳にまつわる社会問題となっていきます。そのうえで新村さんはこう書いています。
 

マイナス・イメージの強い老い観や無関心からは、積極的で優しい介護が生まれることはない。イメージは行動を左右する大きな要素となっている。良質な介護を得ようとするならば、まずプラス・イメージの老い観を持った介護者を育てなければならない。(200-201頁)。

 
 わたしはこれを読んだときに、「ではプラス・イメージの老い観とはいったい何なのだろうか」という疑問を抱きました。そういう介護者を育てることで認知症の問題が解決するのでしょうか。いいえ、それだけでは解決しないでしょう。当事者と周りの関係を考え、作っていくことはまだ追究の過程にあるように思われます。終わることのない旅でしょうが、ここでは「ケア」を節点として考えてみたいと思います。

連載の趣旨

 「ケア」は、心配する、注意する、保護する、といった幅広い意味があるように生活のあらゆる場にあります。例えば、仕事に疲れた身体をいたわるといったマッサージ、傷ついた友人を慰めること、美術館に行って好きな作品を眺めること、好きな人と一緒にいること、日常に疲れてベランダで食事すること、部屋の模様替えといった身近なことが挙げられるでしょう。そこから緩和ケア、認知症・障害者の専門的な介護もその範囲にはいることはいうまでもありません。そうした「ケア」の核心をみれば、人と人、物のあいだの結びつきがあります。そこには何かの問題や発見からの解決、それによる希望や期待があります。それは挑戦と失敗のうえに成り立ってきたものではないでしょうか。
 ここで大事なのは、結果となる解決方法だけではありません。その方法に至るまでの試行錯誤そのものを大事にしたいと考えています。試行錯誤というのは、様々な考え方を組み合わせながら、辿り着くところまでの道筋が拓いていく/拓かれていく過程のことです。それは必ずしも明確なゴールがあるわけではなく、あいまいなまま手を動かすことから問題を発見することも含まれます。つまり、何らかの困難に直面した人たちがひとつのケアの方法を見出すことは、例示されている方法を調整しながら、その人だけの独自の方法を発見した瞬間ともいえるのではないでしょうか。
 そうした瞬間を「ケアを啓く」と定義してみたいと考えています。それに立ち合いなおすためにインタビュー、文献、映像など総合的な分析と考察を交差させることで、ひとりの人間が世界とつながり、ケアを啓くまでの道程を辿ってみましょう。
 

連載の方針

 この連載はあらゆる人たちの生活に深く関わるであろう「歩く」「交信する」「語る/記す」「撮る」「手引く」といった動詞を仮に設定しています。これをもとに、4つのテーマを設け、インタビューや文献・事例のリサーチをお伝えしていく予定です。これらのトピックはインタビューやリサーチだけでなく、認知症未来共創ハブとの協働も試みながら、認知症とケアの可能性や実践的な方法論を提案する土台になることを目指します。
 
 次回は、Vol.1として「撮る」をお伝えします。わたしたちの生活において、カメラ付きのスマートフォンや携帯電話によって撮る/撮られるは身近なアクションです。これを経験しないことはありません。撮るということは、ケアにつながらないと一見思われるかもしれません。
 けれども、電車の中でスマートフォンの写真アルバムを延々と眺めている人がいますし、Instagramという写真共有を中心にしたSNSが世界中から一定数のユーザーを得ていること、また、わたしの知人には家族やペットの写真を待ち受け画面にしている方もいらっしゃいます。ここから、写真を撮ることや眺めるまでのプロセスには、ケアと浅くない関係があるようです。
 そこで、写真家の金川晋吾(かながわ・しんご)さんにインタビューをします。金川さんは20年以上も行方不明だった認知症の伯母さまを2010年から撮影した《Kanagawa Shizue》シリーズがあります。金川さんの人生において、伯母さまとの出会いのきっかけと関係をどうつくってこられたのかお伺いしていきます。
 2つ目のテーマは、「語る/記す」。続いて「交信する」「歩く」をテーマに、その後は「手引く」をテーマにお伝えしていきたいと計画しております。詳しくはまたお届けします。
 
 このように、認知症にフォーカスをあてつつも、その周りの事柄にも注意深くありたいと思います。この連載を通じて、当事者の皆さんがそれぞれの活動を展開していけるよう、ともに歩んでいくことができればと考えています。