すっかりご無沙汰してしまいました。前回は写真家の金川晋吾さんへのインタビューを行いました。金川さんは認知症のある伯母さまを撮影していますが、写真を撮ることが伯母さまにお会いする動機になっており、写真を通じた関係があることをお話しいただきました。
そこで今回は、八幡亜樹さんへのインタビューをお届けします。八幡さんは東京藝術大学を卒業され、映像インスタレーション作品で知られる作家です。その表現には人間に対する関心の深さと広さがあります。また、2020年まで医大で学び、研修医としても活動なさっています。そんな八幡さんはどのようにして自らの関心を広げてこられたのか、またケアについてどう考えていらっしゃるのでしょうか。八幡さんが京都市で運営されておられるスタジオまで訪問し、「交信する」ことを試みました。
プロフィール
八幡亜樹(やはた・あき)
映像インスタレーションを、『「人類の表現=生きること」のための思考装置』と捉え、取材をベースとした作品制作を行なっている。
また、「辺境」に人類の表現の根源的なものを感じ、その追求のための場としてHENKYO.studio(京都)を設立。
八幡亜樹ウェブサイト
1985年 東京生まれ 北海道育ち
2008年 東京藝術大学美術学部先端芸術表現科 卒業
2010年 東京藝術大学院美術研究科先端芸術表現専攻 修士課程 修了
2020年 HENKYO.studio(京都)設立
2020年11月8日 日曜日 京都に。
午前、新横浜駅に。新型コロナウイルス感染症の流行のため、日曜日にもかかわらず新幹線は空いていた。京都駅に着くと観光客が多く、久しぶりの「いつもの」京都を見た気がする。6番のバスに乗って、近くで降りる。ファミリーマートで資料をコピーして、スタジオへの行き方を検索した。グーグルマップで示された行き方は家に囲まれた路地の突き当たりで入り口がわからなかったので、広い道に出て少し進むと家と家に挟まれた路地にスタジオがあった。八幡さんに迎えられ、こたつに入りながら会話を始める。
◆生い立ち:写真部と祖父のこと
木下知威(以下、木下):八幡さん、今日はお忙しい中ありがとうございます。本日はどうぞよろしくお願いいたします。
八幡亜樹(以下、八幡):見るべき作品というもので《△》という作品をお伝えするの忘れていたかもしれません、、ね?これはレビー小体型認知症のかたに出演してもらっているので、これをみて木下さんがお声かけ下さったと思っていたので。京都芸術センターで展示したインスタレーション作品です。(展示風景の写真を見せる)
木下:ありがとうございます。こちらは拝見しておりませんでした。
いま、KAC Curatorial Research Program vol.01『逡巡のための風景』(京都芸術センターウェブサイト)という展示が紹介されているサイトを拝見しました。キュレーターの青木彬さんとは、面識がないのですが、先月、関川航平さんというアーティストとトークをしたんです。その下調べのときに関川さんが青木さんとかつてワークショップをしていたことを知りました。
木下:これが、《△》というヴィデオ・インスタレーションの展示風景の写真ですか。その中にレビー小体型認知症の方が出演なさっているとのことで。先ほどおっしゃった、おにぎりの歴史だけでなく複雑にいろんなことが集約されているというのは八幡さんの作品の一つの存在感だと思いました。△というのは、「さんかく」っていうのですか?
八幡:《△》はおにぎりの三角形の象徴的形の中に、さらに作品独自の意味合いを含んだ象徴的な三角であって欲しかったので、ことばではなく△というタイトルにして、おにぎりと人の営みのいろんなことを詰め込んだタイトルとしました。
木下:ルビをつけるとしたら、なんとつけますか?
八幡:まあ、、、、さんかくですかね(笑)。おにぎり、ではない気がするし(笑)。
木下:お話を伺うと、シンボルとしての三角にいろんな意味が入っている。トライアングルとか、言いそうな人もいるかもしれません。三つの営み、とか。今、ちょうど午後2時になろうとしていますね。温まってきたところなので、本番に入りたいと思います。よろしくお願いします。
八幡:はい!
木下:この連載「ケアを啓く」の前回では、写真家の金川晋吾さんに生い立ちから写真家になるまでのお話を伺い、認知症のある伯母さまを撮影した話を中心に伺ってきました。八幡さんにもその流れでお話を伺っていきたいと思います。
八幡さんは、1985年に東京に生まれて、北海道に育ち、2008年に東京芸術大学(以下、芸大)の先端芸術表現科をご卒業なさっていますが、まず芸大に入ろうと思ったきっかけは何なのでしょうか?芸大に入る前、どんな人でしたか?
八幡:私は高校で友人と二人で写真部を復活させて、副部長をやっていました。すっかり消滅しかけていた我が高校の写真部だったんですが、二人とも高文連という文化系の部活の大会で割と入賞とかするようになって、新聞に取り上げてもらうようにもなって、けっこう活発に創作活動していましたね。で、写真家になろうと思うようになって。東京の写真学科のある大学と、藝大の先端を受けました。藝大の先端は、藝大が好きだった父が見つけてきて、ここいいんじゃない?と。写真だけじゃなくて、いろんな表現を使っても良いというところに魅力を感じた気がします。
木下:そうなんですね。二人で写真部を復活させる。なぜ、そうしようと思ったのですか?
八幡:まったく思い出せません!(笑)ただ、おじいちゃんからライカのカメラをもらって、すごくいいカメラだというのを聞いて、それで遊んでいたのが先かもしれません・・。
木下:ライカというのは、カメラの中でも非常に高価なものですが、それを持っていたおじいさまは写真がお好きだったのですか?関心がなければ、ライカは買わないと思うのですが。
八幡:私からするとおじいちゃんはまったく芸術的な人じゃなかった・・(笑)。なので確かになぜライカを持っていたのか謎ですね。望遠レンズまで持ってたので。 ただ、とても几帳面な人で、切手を集めてきれいにまとめていたり、やたらとのらくろを書くのがうまかったです!!
のらくろ、わかりますかね。
木下:田河水泡の漫画ですよね。犬の・・・。真っ黒な犬。おじいさまが望遠レンズまでお持ちだったとはかなり写真がお好きだったのではないでしょうか。何のお仕事をなさっていたんですか。
八幡:法務官?なんか警察関連の・・?
木下:あ、お役人だったのですか・・・? おじいさまからかなり、影響を受けていますか?例えば、面白い知識とか社会のことを話してくれたり。
八幡:おじいちゃんは、私が物ごころついたときには北海道の家に遊びに来ては近所の友達と飲みに歩いて、家でも飲んでるような感じだったので、全く影響を受けたという感じはしていないかも(笑)。
木下:ライカのカメラは、おじいさまがくださったんですか。
八幡:たぶんそうだったんだと思いますけどはっきり覚えてないですね、でもたしかに、そういう形で、影響を与えてくれてはいたのかもしれない。
木下:なるほど。ちょっと話が前後するかもしれませんが、八幡さんは東京生まれ、北海道育ちということですが、北海道に行かれたあと、高校の頃には東京に戻っていた感じですか?
八幡:小学校に入学する1週間前に北海道に移住して、そこから高校卒業まで北海道です!道産子みたいなもんです!
木下:道産子のアイデンティティがあるんですか。
八幡:あ、言ってみただけで、そこまで北海道に戻りたいという気持ちはないという・・(汗)。
◆函館:トラピスト修道院
木下:北海道のどちらにいらっしゃったのですか。
八幡:函館の近くの漁師町で育ち、高校は函館まで通ってました。朝六時の始発で。寒い冬は除雪が間に合ってないので、タイツ姿で膝より上の雪を足を高く挙げて踏み鳴らしながら通っていました。寒い朝にまだ星空が見えて、空気が澄んでいるあの高校の日々は大切な思い出、原風景?ですね。
木下:いいところですね・・・。朝早く起きて函館まで毎日通われていた。函館というと、北海道の入り口で、わたしとしては障害者教育の歴史が専門なので、函館にあった盲唖学校のことや、またトラピスト修道院のことを思い起こします。
八幡:トラピストってどう関連あるんですか???
木下:写真家の・・・昨年に亡くなった写真家、奈良原一高(1931-2020)の写真「王国」という、トラピスト修道院のなかを撮影しているものがあります。で、その教会は声を出して会話することが禁じられていることもあって、身振りでコンタクトをするんですが、その様子を撮影していました。それを見た時に、ああ、これは障害者の概念が現れているという風に思いました。
八幡:興味深い。私の家族とトラピスト修道院とはかなり交流があって、神父さんが家に遊びにきてくれていたので。高校もキリスト教の高校だったのもあり、キリスト教にはかなり影響受けてると思います。ミチコ教会もそうですねきっと。
木下:なるほど。家族と修道院で交流があって、神父さんが遊びに来られるというのはかなり深い交流のように思いますが。どういう交流なのですか?友人のような?
八幡:はっきり思い出せないんですけど、たしか母が修道院の中を見学したいとかそういうことで話しかけて知り合いになって、そこから・・みたいな感じでしたかね。まあ女性は中を見れないのですけど、そういう話含め、いろいろ教えていただいたことがきっかけだったのかも?
家に遊びにいらしたときの神父さんは、トラピストの中のしがらみから開放されて普通のおじさまになっている感じで面白かったです。
我が家のあった町に神父さんが用事があっていらしたときに寄ってくださって、ケーキとか食べておしゃべりして、帰りに家族で送っていくみたいな交流でした。神父さんから牧場のような牛のミルクのような匂いがしていた気がして、それが気のせいかもしれないけどすごく印象的でした。
木下:へえー。牛がいますもんね。あそこは。
八幡:トラピストクッキーとバター有名ですね。
木下:そうですね。ブリキの箱をいまだに持っています。硬い感じのフォントがとてもいいので、つい捨てられずにいます。ちょっと、大正時代のマヴォを思わせる、ごつい感じのフォントですね。
◆大学生のころ
木下:八幡さんは高校まで函館の近くにお住まいでいらっしゃった。それで、東京藝術大学の入学を契機に上京されたわけですね。その時は、(茨城県の)取手にいたと思いますが、芸大での生活はいかがでしたか?お父様の話で、芸大を知って、写真だけでなくいろんな表現があるところに惹かれたようですが。
八幡:すごいハードに感じました、入学当時は。木幡和枝さん〔こばた・かずえ 批評家・翻訳家 1946-2019〕の授業で、概念構築という授業が最初にあって、1週間に1つ、コンセプチュアルなところを突き詰めて作品をプレゼンして、実制作をする、さいごに展覧会をみんなでつくるという授業があったのですが、すごく頭を悩まされた記憶があります。生肉を使った作品とか出しちゃって、今思うと笑えます(笑)。時間の概念を表現しようとしてそうなった記憶がありますけど。
木下:生肉を使った作品は、ヤナ・スターバックも制作したことがありますね。ポンピドゥーセンターで、生肉を纏う作品をみたことがありました。実物もあって、もう焦げ茶色に変色していて強烈ですよね、物質性が・・・。
木幡先生の授業、1週間に1回、授業でプレゼンをするということでしょうか。一人ずつ、時間を決めて先生がコメントする形だったのですか?
八幡:ヤナさん、拝見してみます。木幡さんの授業は、1週間に1回プレゼンでしたね。毎週違うアイディアを出してプレゼンした気がします。木幡さんからの鋭いコメントつきで、学生はみんなドキドキしているような授業でした。
木下:それはいいですね。木幡さんから言われたことや佇まいで印象に残っていることはありますか?わたしは残念ながら面識を得ることがありませんでした。
八幡:ここで話すことじゃない気もするので、カットでいいとおもいますが(笑)、木幡さんは多分私の作品とか作家性があまり好きじゃなかったと思います。大学院に入ってからは、私のプレゼンのときに帰っているとかありました(笑)。なので、あんまり何かを言われたという記憶がないんですよね。多分、学部時代の概念構築の時はいろいろいってくれてたと思うんですが、そのときは私自身が作家性を確立してなくてあまり周りからどう言われたとか覚えているほどの余裕がなかったのかあまり覚えてない。いろいろ先生の話を吸収したり咀嚼できるころには、木幡さんは疎遠でした(笑)。
(2)に続く。