でも3年目に、「はい、今日3年目です。あんたは子どもができません。どうぞ、うち、帰りください」って言われたの。
——— 3年目に。
3年目で。
「ちょっと来なさい」って言われて。しゅうとめと、しゅうとの親戚5人が並んで。私、泣いてばかりだった、最初。やっぱり、いびられるんだろうね。今なら、泣かしちゃうんだけどね。
座ったら、「今日で3年目です。あんたは子どもができません。どうぞ、うちへお帰りください」って言われたの。そんなこと言われたって、今の時代なら帰ったかもしれないけど、あの時代、一回、私、嫌だって断って嫁に行かなかったでしょ。弱っちゃって。おやじがどっか、いないときにそういうのをされるわけよね、昔の。
どうしていいんだか分かんなくて、いったん。私の実家はその時分もう、商売やめちゃったから、国立に住んでるんですね。そして、多分、国立行ったと思うのね。どうやって電車に乗っていったか覚えがないんですけど。そしたら、うちの父が入れてくれないんです。「入るな」ってしょうがないから、国立の庭で一時間ぐらい泣いてた気がする。「駄目だ」って。「入るな」って言うんです。
それで、しょうがなくって、木場へ帰ってきて、我慢しなきゃしょうがないなと思っていたんですけど、後で、ちょっと連絡が、誰だろう、母親が連絡があったのかな、「お父ちゃんはもう、5時間も6時間もおまえをそういうふうにして、帰らせたっていって泣いてる」って聞いたの。それから絶対にもう、こういうことはしちゃいけないって思って。昔だからね。
——— でも、その後、3年でお嬢さんが生まれたってことですよね。
そう。10年目で二人目。
——— うれしかったでしょう。おうち中、皆さん、喜ばれたんじゃないですか。
行列。あの一枝ちゃんが赤ん坊産んだって。そうですよ。そういう時代。ねえ、子どもはその話、聞かされると、やだろうけどねえ。私んときには、嫁しゅうとめ、うるさい時代でしょ。
——— 確かに。
悲しかったですよ。でも、親泣かしちゃいけないと思って辛抱しちゃって。いいんだか悪いんだか知らないけどさ。
——— 銭湯の番台は、ずうっと、ここにいらっしゃるまで、ずっとやってらしたんですか。結婚して。
番台?ああ。主人もやってたとき、もう、下足ってのは最初、下足番っていうのがあって、それは、小僧さんがいたけど、一時間やるようにって、うちの兄は、絶対に継がないって言ったから、結局、みんな私にかかってる。でも、私、ばかだから、いいんだろうと思ってやってたわけ。嫌いじゃなかったのね。
———ずうっと、ご実家も銭湯で、嫁ぎ先の家でも、銭湯で。
番台しかできないもんね。私、お嫁に行ったときは、お手伝いさんもいて。昔、赤ちゃんの着物着せてあげて、いっぱいあったんですよ。それはやらないです。でも、たまに、お母さんが二人も、昔は子だくさんだから、子どもは預けてて、無駄に泣いてると、抱っこしながら、番台で抱きながらやりましたよ。
それで、おっぱいほしいわけ、子どもは。しょうがないから番台からおっぱい出して、子どもにあげてさ、そういうこともやりました。だって、出ないおっぱい。私はまだそんときに出なかったから。そういうこともありましたね。そんなもんかなあ。
——— ここには、いつからいらしたんですか。
ここは3年半なるかな。
——— 一枝さんがご自分で、そろそろって思われたんですか。それとも。
もう、何にもしてないで、娘の所でごろごろしてたでしょ。私、体操教室行ってたんですよ。プールやったりしてたのを、ちょっとけがしたりして、ここ入るのは、子どもがこういういい所あるよって言って、見にきてそのまま入っちゃった。見学に来てそのまま入っちゃった。
——— それまで娘さんと一緒に暮らしてたんですか。
夫が死んじゃった後だから。
——— おやじさん、亡くなって。お嬢さんお二人は、一緒に住んでらした。
娘が、長女と次女と、孫といたの。亭主とかいたんだけど、そこでちょっと、何日ぐらいかな、こういう所があるっていうので、それで来てそのまんま。着の身着のままで入っちゃったんです。
——— 旦那さんが亡くなられた後は、お一人暮らしじゃなくって、娘さんたちと。
何だかそれがね。お父さん死んでから、娘ん所にずっといたんだと思うんだけど、ちょっと覚えがないの。
——— では、ここに最初にいらしたときの印象って、どうでした。
ともかく、一人になったってことがないです。大勢の中。そしたら、ここの人に聞いてみてもらえば分かる。よく泣いてたらしいわよ。何だろうね。情けないのと悔しいのと寂しいの、どうにもならなかったのね。だから。一生懸命働いてきたのに、どうして私は、自分でよ。どうしてこうやって一人になんなきゃいけないのかなって、悩んだんだね。それで泣いたんじゃない。多分、毎日泣いてたと思う。
——— じゃ、あんまり、入りたくて来たというよりも。
まあ、ねえ。家で商売もやってなければ、家でごろごろしてるのも、嫌だったのかな。あんまり覚えてないな。そうねえ。あのまま風呂屋やめなければ、番台ずうっとね。番台で倒れてればいいから、番台やったかもしれない。
——— お風呂屋さんは、旦那さんが生きてらした頃は、ずっとやってたんですか。
お父さん途中で、すい臓がんなっちゃったから、やめちゃった。
——— すい臓がんなったときに、お風呂屋さんも閉めた?
風呂屋閉めちゃって、裏のほうで私たちは暮らして、お父さんが、マンションにしたの。マンションにして、私ら、私は1階と2階使ってたわけよ。だけど、税金とかいろいろ大変だから。それで、お父さんは、あのまま、あそこで。そうだ。マンションにして、風呂屋やめてからで死んだんだ。だから、店でお葬式出せたからね。店で葬式出したんだわ。あのとき幾つなんだろう。幾つだったんだろう。忘れちゃったの。
——— でも、じゃあ、もうお店をやめて。
マンションの1階、2階に、住んでたのね。
——— お嬢さんたちのおうちも、そのマンションにあったんですか。そういうことですね。
そう。あれは男の夢だったんだろうね。すごい借金をして建てたんじゃない? 私は、うちは、あそこ160ぐらい坪数があったんですよ。昔のお風呂屋さん。お父さんとけんかしたのは、100坪を売って、売ればお金が入るから、それで60坪のほうで小さなうち建てて、そして暮らせばいいんじゃないのって言ったけど、やっぱり、男の夢だったんでしょ。やりたかったんでしょ。
だから、業者が来たときは、私を入れないの。しょうがない。だって、私が入ると余計なこと言う。しょうがないから、まあ、いいや、「お父さんがやりたいならやれば」って言って。だから、今、考えると、あのとき入って、建てさせないどきゃよかったと思って。あれは男の夢だったんでしょうねえ。お父さんの一世一代のね。8階建てにして、下がスーパーみたいにして、私ら、地下にも部屋があったから住んだり、いろいろ。
——— そこからここに移られたってことですよね。
それで、商売、お父さん死んじゃって、そこが分かんないのよ。どうして。娘が門前仲町にいて、あそこに転がりこんだのか。どういうわけで、今度よく聞いとかなきゃ分かんない、そこ。すみませんね。
——— それから、こちらにいらして、ちょっとつらい時期が。
ここへ入ってね。なんで一生懸命働いてきて、建てて、お父さん看病して、なんで私がこういう悲しい思いするの。だって、一人だったら寂しいじゃないですか。初めてだから。風呂屋なんて、大勢家族で生まれた所もそうだから。そしたら情けなくて、悔しくて、で、泣いたんだ。
——— 今は?
今は、全然平気ですよ。
——— 何か、きっかけがあったんですか。
何だろうねえ。諦めかねえ。でも、別に私、お金の問題は全然、私、やったことないんですよ。風呂屋のときも。子どもがよくしてくれるので、孫の子もよく来てくれるので、ずっとそのまま、ここで暮らして。ここの方も皆、心配してよくやってくださるから。そうですねえ。
——— 今日のように、今までのことをお話してもいいと思えるようになったきっかけはなんですか?
何だったのかなあ。泣いてもしょうがないって、自分で諦めた。そこら辺がうやむやなんですね。でも、随分、泣いてたみたいよ。
——— 例えば、入居者の中でお友達ができたとか、あるいは、スタッフさんが仲良くなったとか、もしくは駄菓子屋さんやるようになったことが関係していますか?
多少は、食事してたりなんかすっときに、やなことも一、二度、そりゃありましたよ。どこだってあるでしょ。そんなのはごちゃごちゃ、自分のやっぱり。初めて一人になったから、寂しかったんじゃない。戦争中だって、私、石川県の金沢ってほうに疎開してて、洋裁学校通ったんですよ。今でもあると思う。そのときだって、片道3時間かかった。借りてるうちから、お風呂屋やめちゃって、変な戦争が終わったとき、石川県のほうかな、引っ越したんですよ。七尾っていう所に。そっから、金沢の洋裁学校通うのに、片道3時間。往復6時間。
——— すごいですねえ。
でも、2年、3年までいかないけど。2年ちょっと行ったのかなあ。一日しか休まないで。何もできないの。ただ行っただけ。
——— いや、もう。お召し物で。成果が。
汽車ポッポ乗っただけ。往復6時間。あの時分。だって、女の子が、客車じゃなくて貨物で通ったの。
——— それだけ洋裁学校に通いたいと思ったわけですよね。貨物で3時間かけて。
なんかやんなきゃしょうがなかった。私、学校も中途半端だし、何でも中途半端で、何にもできないから、せめてうちの父が、金沢ドレメっていったら、洋裁学校でも名が売れてるから。そこの門だけでもくぐってこいって言ったから。門くぐったわけ。
——— それは、結婚前ですか。
そう。それで、お昼の弁当なんかは、私らのときは、貧しい、すごい弁当。だけど、同級生はみんな、その辺の子だから、すてきな弁当持ってんの。お弁当はいっつも兼六公園で、食べに行った。嫌いなものは全部、放り出す。そうすっと、ハトポッポが食べにくる。そういう思いして、あそこに2年ちょい通ったかな。
私も知らなかった。月謝も高かった。汽車賃も大変だったみたいよ。親がね。それは、兄貴に言われるまで知らなかったの。私は遊ばないからね。
——— 結婚前にドレメに通って以来、ずっと作ってらっしゃるってことですね。
もう、全然。何にもやってないですよ、今。
(3)に続く
※ 人物の名称は仮名です