とある方のライフヒストリー

フィールドワークで出会った方々の、豊かな語りをなるべくそのままに。話し手も聞き手もその時出会ったからこそ、そこで話された物語を、ライフヒストリーの形で掲載します。

vol. 9

母なるもの(1)

月子さん、日出代さん

 
 
2021年1月26日
 
 
午後の柔らかな光が射す食堂に、おふたりは現れた。足腰の弱い月子さんを、日出代さんがお手伝いをする。日出代さんが「あら、なんの話だったかしらね?」となると、月子さんがさりげなくフォローする。「あ、そうそう、そうだったわね」お互いをそっといたわりあう、ご近所さんのギブアンドテイク。
   
月子さんと日出代さんは干支でひと回りの年の差で、90代と80代。戦後10年から20年のタイミングで首都圏のベッドタウンに嫁ぎ、子を産み、企業戦士の夫とともに高度経済成長期を駆け抜けた。1960年代から専業主婦が既婚女性に占める割合が増え、1996年以降は共働き世代が逆転している。世界は冷戦が続いていて、ベルリンには壁があり、東京ディズニーランドができた。ジャパン・アズ・ナンバーワン。日本に翳りが少ない時代だった。その後バブルが弾けて、世の中が少しずつ変わったが、中堅世代になっていた彼女たちの生活基盤はすっかり安定していただろう。
   
一家の主人である女として家庭を預かり、家事を仕切り、家計を管理する。彼女たちは、子どもたちが成長するにつれ、個々の趣味や嗜好、経済的基盤に応じて、創造的な才能を開花した。望めば自分の時間をあますところなく、家族のための活動や趣味活動に使えた。無添加にこだわったおやつや、季節ごとの伝統食、イベントの演出。服やセーター、浴衣も着物も手作り。庶民は手作りしなければ、良いものは手に入らなかった。そんな工夫を凝らした暮らしぶりが、おふたりの話には散りばめられていた。
   
当時が良かった、と賛美しているわけではない。人の暮らしは、その時その時、ふつうに暮らしているつもりでも、平凡さを保ちながらも、少しずつ変化していく。ふと気づけば異世界にいるような気持ちになる人もいるのではないか。
   
時間というものは、いつのまにか私たちを、とても遠い世界に連れて行く。あの頃の母たちは、満ち足りていた。そう感じるのは、今が生きづらい時代だからか。主婦業に報酬はないという考え方もある。しかし時間を切り売りする賃労働に縛られない、自分の時間軸で生きる自由はあっただろう。許された時間とこの手を使って、できる限り手間暇をかけて、良き暮らしをしましょう、と創意工夫してきた彼女たちの人生の話を聞いて、ほろ苦い郷愁を感じてしまったひとときだった。
 
 
 
・・・
 
 
 
 
 
日出代   私は黙って聞いてるからそっちはみんなでよろしく。よろしく。
   
——— それはみんなでだんまりしないといけなくなっちゃう。
日出代   そうですね。みんなでお話ししましょ、四分の一ずつ。
   
——— さっき作っていたジャムはできましたか?
日出代   ジャム? ジャムまだing、進行形ですね。まだ寝かせてます。
   
——— 寝かせる?
日出代   もう終わりのほう。なんか固くなるんですって、冷ますと。煮詰めるわけ。煮詰めてとろみが出てきますね。それをある程度やってから冷やして、冷蔵庫入れて冷まして。やっぱり、そしたら違いますよ。味が落ち着くでしょう。おいしいですよ、とっても。自然の甘さで。この間、皆さんに体操の後、一枚ずつでしたけどクラッカーに載せて、そしたら、もっと、もっとって言う方、いらしたけど。作るのにちょっとかかる。
月子    めんどかったでしょう、あれ、ユズは。
日出代   意外とね。
月子    種があるしね。
   

   
——— 今年何回目ですか?
日出代   いや、今年初めて。私は去年のちょうどここで1年。1月17日で丸1年、入居して。ここ、建ってまだ2年目ぐらいでしょう。だから本当に新しい所へ入居さしていただいて、本当、いい所へ。何軒か、3軒くらい回ったんですね。で、見て、ここ最後。
ここがいいな、入居さしていただくならここかなと思って、入って、もう、すぐ決めちゃったの。
   
——— 決め手は何だったんですか。
日出代   決め手はなんか雰囲気。入ったこの感じが、ぱっとした感じが、明るい感じして、まだ出来たてだったし。そんなお会いしたわけじゃないんですけど、とってもいい感じ、いい印象を受けたのね。やっぱりインスピレーションって大事ですもんね。
   
——— 第一印象。
日出代   そう、第一印象でね。3軒ぐらい見たんですよ。それで、1社はショートもやったりして、そこにしようかと思ったけど。ちょっと入ったら、トイレがお部屋にないの。それで外へ来たら、そのとき嫌な思いして。それで、もうここは駄目だって、そこ捨てて。もう1軒行ってから、ここ来たらもうすごくすてきじゃない?もうここに決めたっていうんで。そうしてよかったと思います。とってもね。
   
——— ここでの暮らしはいかがですか。
日出代   そうです。皆さん、いい方よね、とってもね。所長さんもはじめ、皆さん、職員の方もいい方で、中の方も皆さん、穏やかね。
月子    こういう所あんまり来てないからね。
日出代   私たち、みんな初めてですもんね。初めての方ばかり。だから、経験ない方ばかりだけど、皆さん、穏やかね。そんなけんか腰とかそういうあれはないですね。だからありがたいですよね、毎日がやだなっていう気持ちないからね。また明日も元気でって、また一日過ごせますようにって。こうやってお願いして休んで、また元気って感じでやってます。
   
——— 毎日、どんなことをして過ごされているんですか。
日出代   毎日、朝、起きて、何だろう。何てことないの。だから、目標があって、きょうは何をやる?じゃ、きょうはその目標、きょうはお手紙書きましょうなんて。ここへ来たら時間がいっぱいあるんだから、皆さんに、ご無沙汰してるお友達に書きましょうなんて思って、住所録は持ってきたものの、全然、1年たっても。で、お電話しちゃうのね。ごめんなさい、なんて、お声聞きたくてとか言って、こうなっちゃうの。もう電話は始終します。電話代はすごくかかって。でもそのぐらいの楽しみなくちゃね。外に出られないでしょう、今。だからせめて、もうそのぐらいはけちらない。
   
——— 毎日、電話はかけるんですか。
日出代   やっぱりどっかにしてますね。それが唯一の楽しみです。家族へしたりね。
   
——— こちらは朝ご飯は何時ですか。
日出代   朝は7時半から。私は7時半に下りてきます、ここ。7時半から下りてきますよね。それからお食事は大体、8時頃からね。お昼が12時。で、夜が6時。だから私、5時半すぎに来ますね、いちおう早めに。
お昼も11時半すぎに来ます。大体、早めに来てます。それでお手伝いがあれば。お茶出しとかそういうのがあればやります。
   

   
——— 食事の準備をお手伝いされるわけですか。
日出代   準備はあすこにあるおしゃもじとかお鉢が出るでしょう。お鉢を運んだりとか、あと、ここ6人だなと思ったら6客持ってお湯飲みを運んで、あと、ポットをあれしたりして。
月子    私は何にもしない、動けないから。
日出代   もうこちらご隠居さんです。大事ないい方なの、優しくて。
月子    監督。
   
——— 総監督?
日出代   監督、そう。
月子    みんなやってもらってるの。
日出代   いや、とてもいい方でね。座ってていただけばもういいんです。そういう方。動ける人が動けばいいんだからねって。私もいずれかはこういうあれに、順繰りでね。だから動けるうちは動いて。どこ行っても私、大体、動いてます。
   
——— 厨房の方も、下膳を手伝ってくれるから助かっちゃうって。
日出代   いや、そんなこと。最後、出て残ってんの嫌なのね、見んのね。それを見て見ないふりできないし、早く片付けて、夜だから早く帰りたいでしょうと思ってね。夜なんか特に早く帰してあげたいと思う、だから。
月子    すぐ立てるの、関節が。恋しくなっちゃう。
日出代   恋しくなっちゃう? 腰は軽いのよ。
月子    だから、お言葉に甘えてじっとしてるの、私。
日出代   いいのよね。老いては子に従えじゃないけど、若い人が動けばいいの。これ、順繰りだからね。
月子    10歳違う?
日出代   そんなに違う? 90になんの?
月子    過ぎてます。
日出代   なる。じゃあ、10歳ぐらい違う。
   
——— お幾つですか。
月子    94歳。
日出代   すごい、一回り違っちゃう。お元気ね。じゃあ、大事にしてあげなきゃね。94歳。
月子    94歳なったの、この間。
日出代   同じ寅?
月子    卯。
   
——— 早生まれ?
月子    そうです。1月だからね。
日出代   1月。一回り違う。それでこんなお元気な。じゃあ、私もあやかって元気でいさせていただくわ。
月子    というか、こんなつもりじゃなかったけどね。できることやりたかったけど、そうはいかないでしょうって、年取ればね。



(2)に続く
※ 人物の名称は仮名です