イギリスの慈善団体「AGE UK(エイジ・ユーケー)」による2017年の調査で、65歳以上の10人に4人が、企業や小売業者が高齢者のニーズに、ほとんど関心を持っていないと感じているという結果が出ました。65歳以上を含む家族世帯は、2013年には19兆円ものお金を使っているにも関わらず、売り場で高齢者は「存在していない」「求められていない客」のように扱われていると語られています。認知症のある方や、お金と時間に余裕のある人も多い高齢者が楽しく快適に過ごせる買い物環境は、どのように実現できるのでしょうか。今回は身近なスーパーマーケットなど小売店の事例を中心に、認知症にやさしい買い物環境をご紹介します。
1. 高齢者と認知症にやさしい買い物タイム「スローショッピング」
スローショッピングは、認知症のある方はもちろん、高齢客が楽しくショッピングできるよう、店内の動線やスタッフ教育を独自に開発した店舗連動型の支援サービスです。1人の英国人女性キャサリン・ベロ氏がこのサービスを立ち上げ、現在英国の大手スーパーマーケットや家具販売店のIKEAが導入しています。ベロ氏は買い物好きだった自身の母親を介護した経験を活かし、母亡き後に2年間の現場リサーチを重ね、スローショッピングの仕組みを確立しました。
取材を行った高級スーパーマーケット「ウェイトローズ」バース店では、毎週火曜日、午前10時の開店から正午12時までの2時間を、スローショッピングの時間に当てています。この時間帯は、認知症のある方々に必要なサポートやケアの教育を受けた店舗スタッフが、事前に買い物環境を整え、お客様を迎えます。
〜スローショッピングの環境準備例〜
◯買い物スペースに自由に休むことができる椅子を、毎回決められた場所に配置する。
◯入口などに配置されている黒マットは、認知症のある方にとっては穴に見える可能性があるので、取り去る。
◯店舗スタッフはお客様を「見守る」姿勢に徹し、アイコンタクトを常に送る。助けを求める様子があれば、サポートに入る。
◯レジでは、店舗スタッフが「待ち」の姿勢を貫く。
◯BGM、館内放送を一切しない。レジ音を最小限にする。
「買い物環境整備は、サポートの本質となります。予算をかけずに、ほんの小さな変更や少しの改善で、認知症のある方々への大きなインパクトを生み出せるのです」と、ベロ氏は語ります。スローショッピングの効果は、2つ挙げられます。ひとつは、来客数・売上が通常と比べ増加すること。ふたつめは、店舗スタッフの仕事に対するポジティブな就業態度が目覚ましい伸びを示すことです。店舗スタッフは「感謝される」「人の役に立っている」ことをスローショッピングを通じて実感し、仕事へのやりがいを感じ、それが定着率にもつながっています。スローショッピングは、お客様に対してだけでなく、店舗運営側の人材確保・人材育成にも良い影響をもたらしていることが明らかになりました。
スローショッピングの導入は、英国ニューカッスルを中心に、大手小売店のTESCO(テスコ)、ASDA(アズダ)、IKEA(イケア)など、2020年10月時点で英国12ヶ所で展開されています。今後は小売店だけでなく、美術館や銀行などにもスローショッピングのコンセプトを広げる予定だそうです。1人の英国人女性が成し遂げた、認知症にやさしい買い物環境の取り組みは、今後も英国中に広がっていく可能性を十分に秘めています。
【ヒト・組織】スローショッピング(Slow Shopping)
【エリア】英国各地
【出典】スローショッピング
【関連する生活課題】レジ、商品選び、陳列棚、買い物カート、館内放送、床、奥行き
【該当する64心身機能障害アイコン】
2. 買い物中・移動中の「ちょっと待ってて」を示す、JAMカードと携帯アプリ
JAMカードは「Just a Minute=ちょっと待ってて」を示すためのカードです。英国の慈善団体 NOWグループによって、携帯用のカード・アプリ・提携会社への教育が、セットで開発されました。認知症のある方はもちろん、学習困難、自閉症など、コミュニケーションに困難を抱える方々が、店舗スタッフなどに対して、お会計が不安な場合や、言葉の理解に時間がかかる場合に、簡単に「ちょっと待ってて」を伝えることができます。「ちょっと待ってて」を伝える方法は2つあります。①カードそのものを提示することと、②スマートフォンに入れたJAMアプリを提示することです。店舗や公共交通機関などでサービスを受ける際、「JAM(Just a Minute)」が大きく示されたカードの表面(アプリの場合は最初の画面)を見せ、次に時間が多めに必要な理由、例えば「私には認知症があります」「私は自閉症です」などが書かれた裏面(アプリの場合は次の画面)を見せます。JAMカードを示された店舗スタッフは、寛容に対応することができます。
JAMカードを開発したNOWグループは、JAMカード提携会社にコミュニケーション障害のあるお客様への理解と対応を教えるスタッフ教育も提供しています。またJAMカード保持者は、その店舗でサービスを受けた後に、3段階評価できるシステムになっています。JAMカード保持者のリアルな評価によって、提携会社側もサービスや対応の改善点に気づき、お互いにとってより良い環境を築くことが可能になります。
JAMカードは「ちょっと待ってて」というほんの少しの望みを叶えるための小さなカードですが、認知症のある方がハッピーになるお店や移動手段を世の中に増やすための重要な仕組みです。
【ヒト・組織】JAMカード
【エリア】英国|北アイルランド
【出典】JAM Card
【関連する生活課題】レジ、会話、駅
【該当する64心身機能障害アイコン】
3. 英国大手スーパーマーケットの、認知症にやさしいレジ
2015年から英国大手スーパーマーケットTESCO(テスコ)では、認知症にやさしいレジが設置されています。認知症のある方は、支払いに必要な小銭の計算をすることが難しかったり、手にした小銭がいくらのものなのか、瞬間的に思い出せなくなることがあります。認知症にやさしいレジでは、見やすいサイズに拡大されたコインの写真と、そのコインの金額が掲示され、認知症のある方が、どのコインが支払いに必要なのかを思い出しやすいようにしています。
2017年には、アルツハイマー・スコットランドによるアイデアを元に、レジで急かされることを望まないお客様が並ぶことができる「リラックス・レーン」もスタートしました。レジでの支払いに時間を要する人が「リラックス・レーン」に並ぶ為、店舗スタッフもお客様の準備ができるまで待ち、必要があればサポートをしますし、後ろに並ぶ人もイライラして前を急かすことが無くなります。「認知症にやさしいレジ」と「リラックス・レーン」はどちらもTESCO(テスコ)のレジ対策ですが、翌年には他社大手スーパーSainsbury’s(セインズベリーズ)でも同様に「リラックス・レーン」がスタートし、ニュースやSNSでも話題になっています。
買い物プロセスで必ず必要となる、支払い。この2つのレジ対策は、毎日楽しく安心して買い物してもらうために、認知症のある方の尊厳をどう守るかヒントを教えてくれます。
【ヒト・組織】TESCO(テスコ)、Sainsbury’s(セインズベリーズ)
【エリア】英国|スコットランド
【出典】Dementia Action Alliance
【関連する生活課題】レジ、小銭、財布、計算
【該当する64心身機能障害アイコン】
4. すべての人にやさしい、有楽町マルイの「みんなのフィッティングルーム」
2019年に、インクルーシブ・デザイン発想から生まれたすべての方にやさしい「みんなのフィッティングルーム」が、有楽町マルイに設置されました。車いすに乗る方にも十分な、お部屋のような広さの試着室です。このような試着室が、なぜ認知症のある方にも大切なのか、スローショッピング考案者のキャサリン・ベロ氏が、その理由を以下のように語っていました。
◯ 夫婦どちらかに認知症がある場合、必ず付き添いが必要になるが、通常の試着室は男女が分かれているため、夫婦が一緒に入りづらい。
◯ 歩行や運動能力の変化で、認知症のある方は体形が激変し、下着や洋服の買い替え機会が増える。
◯ 女性の下着を買い換える際、夫が下着売り場に居づらく、ましてや一緒に試着室に入ることもはばかられるような雰囲気がある。
英国の大手小売店マークス&スペンサーの一部店舗では、男女を問わない試着室を設けているという話も、ベロ氏から伺うことができました。以前『衣とデザイン』コラムでもご紹介したように、無地のTシャツを着る際に、認知症のある方はどこから腕を通しどこから首を出せば良いのか迷ってしまうケースもあり、衣服の着脱に困難を抱えることも多くあります。有楽町マルイの「みんなのフィッティングルーム」は、このような困りごとにも応えてくれる重要な空間と考え、ピックアップしました。試着室の名前に「みんなの」とあるだけで、助け合いながら認知症のハードルを越える夫婦や家族の気持ちを、楽にしてくれそうです。
【ヒト・組織】有楽町マルイ|みんなのオーダー バイ ビサルノ
【エリア】日本|東京
【出典】みんなのフィッティングルーム
【関連する生活課題】商品選び、着替え、服選び、身だしなみ
【該当する64心身機能障害アイコン】
5. 財布自体が記憶を補うという発想で開発された、認知症にやさしい財布
認知症未来共創ハブ運営団体のひとつでもある、NPO法人 認知症フレンドシップクラブの関連会社DFCパートナーズが、2020年1月に「認知症にやさしい財布〜niho(にほ)〜」を発表しました。この財布は、認知症のある方とその家族、医療・福祉関係者、学生、ものづくり関係者が集まり、フィッシュ・ボウル式(空間の中心に座る内側の人、それを囲むように座る外側の人が、関係を保ちながら対話をする方法で、金魚鉢を意味します)でアイデアを出しながら当事者目線で開発された財布です。
「二歩から三歩(散歩)につながる」という意味も込めて「niho(にほ)」と名付けられた認知症にやさしいこの財布には、財布自体が記憶を補えればいいのではないか、という発想をベースに、認知症のある方の尊厳を守るための様々な工夫と気配りが施されています。例えば、かばんの中からゴソゴソと財布を探さなくてもよいよう、長めの留めベルトが付いていてすぐに見つけることができたり、支払い時にお札を出して小銭が財布の中にどんどん溜まっていっても大丈夫なよう、たっぷり30枚小銭が入るスペースを設け、小銭が多いか少ないかで、2つのスナップボタンのどちらかで閉じられるようになっています。小銭入れのくちが大きく開くことで、いくらのコインが何枚入っているかを見ながら取り出せることも、空間や色の認知障害を補ってくれます。更に、財布を広げた時にヘルプカードがいつも人目にさらされる場所にあるのではなく、小銭入れ内側の窓ポケットに入れることができるため、本人が必要な時だけヘルプカードが示せるという細やかなデザイン配慮がなされています。
いちばんの生活必需品と言えるアイテムを、徹底的に認知症にやさしいデザインにした財布「niho」は、オンラインショップで入手可能です。大切な人が、できる事を奪われずに暮らしていける為のサポートアイテムとして、プレゼントなどにも喜ばれそうです。
【ヒト・組織】株式会社DFCパートナーズ
【エリア】日本|東京
【出典】財布 – niho – 小銭が取り出しやすい財布 ストラップ付
【関連する生活課題】財布、計算、探し物、小銭、レジ
【該当する64心身機能障害アイコン】
6. 認知症にやさしいアイテムを取りそろえた、英国のオンラインサイト「Live Better With」
認知症にやさしいアイテムのデパートとも言える、オンラインショッピングサイト「Live Better With」が、英国で展開されています。このサイトには、「物忘れ」や「食事や睡眠の困難」など、どのような生活シーンで困っているのかを選択すると、その困りごとを解決してくれそうなアイテムに誘導してくれたり、軽度認知症(MCI)から重度の認知症と、症状レベルによってアイテムを選べたりするなど、それぞれのニーズに合致する商品を見つけられるよう、細やかなカテゴリー分けがあります。
また「Live Better With」のリアル・ストーリーズというコラムでは、どんなアイテムが生活に喜びをもたらしてくれたか、認知症のある方とその家族による実話を紹介しています。また、認知症のある方の生活を活動的で健康に保つためのアドバイスなど、プロダクト情報と生活情報の両方から情報を提供してくれる、心強いウェブサイトです。
「Live Better With」には、ケーススタディ編①『食とデザイン』 〜認知症にやさしい食器・配膳ツール・調理器具 ほか〜 で紹介した、水分補給を助けるドロップレットも、「Live Better With」で掲載・販売されていました。英語表記のみのウェブサイトですが、手っ取り早く世の中の認知症にやさしいアイテムをチェックしてみるのには、十分参考になるでしょう。
【ヒト・組織】Live Better With.
【エリア】英国
【出典】Live Better With Dementia
【関連する生活課題】商品選び、調べ物
【該当する64心身機能障害アイコン】
7. 英国アルツハイマー・ソサエティの「小売店のための実践ガイド」
皆さんの身近に、認知症のある方やそのご家族・介護者からの意見やアドバイスを聞く機会が無くとも、いますぐ認知症にやさしいショッピング環境を実現できる、手っ取り早い方法があります。それは、英国アルツハイマーソサエティから発信されている「小売店のための実践ガイド」PDFをダウンロードし、紹介されている内容をひとつでもお店で実践してみることです。この実践ガイド(英語のみ)には、認知症のある方の買い物体験に、環境がどのような影響を与えるかが、細かく説明されています。また、認知症のある方のための具体的な買い物環境づくりの方法や、なぜそのような工夫が重要なのかも説明されています。そしてこれらの情報は、すべて無料で入手できます。一部ですが、ガイドに掲載されている内容をご紹介します。
〜認知症にやさしい小売店が得られる、ビジネス上のメリット〜
競争上の優位性、売上の向上、顧客サービスの向上、ブランド評価の向上、超高齢社会への備え、法律(平等法)の遵守。
〜認知症にやさしい小売店が得られる、社会上のメリット〜
認知症のある方がより良く生きるための環境の提供、認知症のある方が自立した生活ができる環境の提供、アクセスしやすさを社会全体に浸透させるための働きかけが可能になる。
〜小売店が実践できること〜
◯認知症の方を支援するための看板の改善。
◯商品代金の支払いに苦労している認知症の人の支援。
◯店舗スタッフの気づきの向上と認知症理解。
◯認知症に配慮した接客サービスの提供。
◯売り場環境の改善とチェックリスト作成。
◯認知症のある方が家族にいる、または本人が認知症がある場合の、スタッフサポート。
◯地域コミュニティーへのサポート。
「小売店のための実践ガイド」に日本語版はありませんが、自動翻訳アプリDeepL翻訳などを活用すれば、自然な日本語に翻訳され、十分に意味は汲み取ることが可能です。認知症にやさしい買い物環境を実現するために、「小売店のための実践ガイド」を活用し、是非最初の一歩を踏み出してみてください。
【ヒト・組織】Alzheimer’s Society
【エリア】英国
【出典】小売店のための実践ガイド
【関連する生活課題】会話、レジ、財布、商品選び、
【該当する64心身機能障害アイコン】
次回のケーススタディ編は「健」をテーマにお届けします。新型コロナウイルスにより、高齢者に大きな生活影響がでているなか、健康で喜びのある生活を送るための世界中の実践例をご紹介いたします。どうぞお楽しみに。