認知症とともに生きる
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伊坂千津(仮名)

年齢:

90 歳 (2019年12月インタビュー時点)

性別:

女性

生年月日:

1929年

居住地:

千葉県浦安市

同居家族:

ひとり部屋(サービス付き高齢者住宅)

職業:

元海運会社会社員

発症年齢:

85 歳頃

診断年齢:

85 歳

診断名:

アルツハイマー型
認知症、記名力低下

認知症の評価スケール?Mini-Mental State Examination(MMSE)
国際的に最も広く用いられている本人への質問式の認知症のスクリーニング検査。見当識、記銘力、注意・計算、言語機能、口頭命令動作、図形模写等の認知機能の評価からなり、総得点30点で一般に23点以下を認知症の疑いとする長谷川式スケール(HDS-R)
我が国で広く用いられている本人への質問式の認知症のスクリーニング検査。年齢、見当識、3単語の即時記銘と遅延再生、計算、数字の逆唱、物品記銘、言語流暢性の9項目からなり、総得点30点で、一般に20点以下を認知症の疑いとする。
:

MMSE 20点台 (2019年7月時点)

要介護度?介護保険制度において、心身の状況に応じて判定される介護の必要度。なんらかの社会的支援を要する要支援(1・2)、部分的(要介護1)から最重度(要介護5)の介護を要する要介護の段階がある。<:

要介護1

介護保険サービス利用:

週2回のデイサービス(半日)利用、
週1回の掃除洗濯理念交換・週3回の入浴、
週1回の訪問看護(ここ2年くらい)
(週3回医療保険でのマッサージ利用)

これまでのあゆみ

2003年(74)

造船商社を退職後、夫と二人暮らしだったが、早くに夫を亡くす
日本全国歩いて回る。その後都内で一人暮らしをする
朝散歩し駅前の喫茶店で引退した友達と集ってお茶を楽しむ
スポーツクラブのトレーナーと交流もあり、地域のつながりを育む
自宅へ人を呼んで交流する

2011年(82)

NGOの手伝いの関係でラオスへ行く。子供たちを支援するため、学校などでボランティアに従事する

診断

2014年(85)

2014年4月、息子海外から帰る。
そのころ,本人が転びなかいか骨折をする。足の動きがやや悪く、年相応の記憶力の低下と開業医から言われる(軽い認知症)
息子としては、本人の記憶力が薄れていることに気づき、1人で住んでいるため本人は気を張っているところもあるが、自分の家の近くへ住み替えることを検討する

2018年(89)

本人は、住み替えの時,独りで暮らす身体への不安と、家を離れることが嫌だという気持ちや抵抗が少しあり、住み替えにの決断に揺れている

2018年(89)

住み替えの戸惑いはあったが、息子の自宅近くのサービス付き高齢者住宅(サ高住)を見にいくと、「高齢者施設」というより、駄菓子・食堂・子供が自由に入ってきて放課後に勉強をする自由で開放的なところが気に入り、住み替えを決断する
食事やお風呂ができ始め、生活に慣れる

2018年(89)

住み替えに伴う住居変更を失念し、はじめはサ高住で自己負担により介護サービスを開始(ケアマネが早急に手配を行う)

2018年(89)

転倒し肋骨を3本折るなどのハプニングがおこある
その都度ケアマネと共に生活を立て直していく
息子の家が近くにあるということも安心感の一つになっている

2019年(90)

サ高住の人間関係には多少気は使うけれど、事務所の人と笑いあったりすることがガス抜き、安らぎになっている。ここから出たくないし、終の住処として考えている

人生・生活の喜び

1

今は諦めてしまった喜び

気まぐれにどこかへ行くこと。ラオスに行って学校の子供たちを支援したこと。私は子供専門なんです。

2

今は諦めてしまった喜び

都内の元住んでいた場所の友人と喋ること。移り住んでからはそれがないので、恋しい

3

発症前後で変わらない喜び

和紙に絵日記を描いて、輪止めすること。日々のくだらないことが色あせないうちにその躍動感を描くこと

4

発症前後で変わらない喜び

息子の訪問
(週1回。散歩、買いもの、ドライブ。「母の自立した生き方にリスペクトをしている」)

今後やってみたいこと

自分の放浪を本にしたいです。当時はあんなことをしている日本女性は珍しかった。
また、前の住まいの近所の友人とおしゃべりがしたいです。
自分の足で歩いていたいです。

生活課題

読書

名前

目的地

片付け

探し物

喜び

3

喜び

1 2 4

心身機能障害

社会へのメッセージ

子供の育てかたについて。子供は純心で、変な流行に従わず、ケンカもしていいと思う。でも、目下の人とは喧嘩しちゃいけないということを子供に伝えました。子供が好きだという根本は変わりません。そういう意味では、私はやり切ったと思います。
明日死んでもいいと思っています。もともとは弱い身体だったけど、放浪を本にしたいなと思うくらいの人生でした。