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hiro

年齢:

59 歳 (2019年11月)

性別:

男性

生年月日:

1960年

居住地:

神奈川県小田原市

同居家族:

妻と二人の子ども。二世帯住宅に妻の両親が住む

職業:

会社員

発症年齢:

56 歳頃

診断年齢:

56 歳

診断名:

アルツハイマー型

認知症の評価スケール?Mini-Mental State Examination(MMSE)
国際的に最も広く用いられている本人への質問式の認知症のスクリーニング検査。見当識、記銘力、注意・計算、言語機能、口頭命令動作、図形模写等の認知機能の評価からなり、総得点30点で一般に23点以下を認知症の疑いとする長谷川式スケール(HDS-R)
我が国で広く用いられている本人への質問式の認知症のスクリーニング検査。年齢、見当識、3単語の即時記銘と遅延再生、計算、数字の逆唱、物品記銘、言語流暢性の9項目からなり、総得点30点で、一般に20点以下を認知症の疑いとする。
:

MRI,SPECT (2016)

要介護度?介護保険制度において、心身の状況に応じて判定される介護の必要度。なんらかの社会的支援を要する要支援(1・2)、部分的(要介護1)から最重度(要介護5)の介護を要する要介護の段階がある。<:

自立

これまでのあゆみ

1960年(0歳)

生まれも育ちも小田原ずっと小田原市

1984年(23歳)

大卒後23歳から働く。印刷会社や市外で別の製造業にて勤務。市内に戻り、今の会社に就職

1990年(29歳)

29歳で結婚。3年後に家を建て妻の両親と同居する
30歳で長女誕生、37歳で長男誕生

2016年(56歳)

ネットでやり取りしている人がいて、「こうだったよね」と相手からリファーされたやり取りに全く記憶がなくふしぎに思う。ログを見ると確かに残っているが、自分からは完全に抜けていた。見れば思い出す、というのではなく、自分が本当に書いたという記憶がない

他の病院には断られたため、アルツハイマーで通院していた父の主治医に電話して、一度は断られたが、父の話を出すと検査をさせてくれた。「どうってこたないですよ」と言われると思っていた

診断

2016年(56歳)

MRIとSPECT検査(脳血流シンチグラフィ)の結果、萎縮の度合いは弱いけれど海馬のあたりの血流が悪い所見があったらしい。数値として悪い状態ではないものの、HDRの数字と合わせての診断を受ける
症状はずっと継続してはいない状態で、仕事にも支障はなかった。とりあえず、のつもりが「あんたアルツハイマーだよ」と言われてしまった

2016年(56歳)

診断後
交代勤務のある部署に戻ってくれと言われたが、健康状態を維持するために断った
部品の製造に関わる仕事をする。理解のある上司にだけ話をしていて内密にしているため、自分だけ特別扱いのような状況になっており、周囲の理解が得られず、白眼視されるような状況も時折ある

親族が認知症だったので、どんなことが起きるのかはよく知っている。対処方法を今から知っておきたいと思い、医学的なことを自分で調べ始める

同じ認知症の人に関心を持ち、主治医の勧めもあり若年性認知症支援の団体に参加し始める

車の運転を見合わせる。車のない生活が始まる。土地柄買い出しがとにかく不自由。買い出し難民になる

2017年(57歳)

「ん?全然変わんないじゃん?」と、症状がないままの状態が継続していることに気づく
認知症の検査を受けた時のようなあ違和感を感じることも全くなく過ごせている
残るのは認知症の診断によりシフトした生活の不便さと、いつ来るかもわからない症状への不安が続くこと。再度検査を受ける(結果は2016年の診断時とほぼ同じ)

2017年(58歳)

認知症本人として声を上げる役割を期待されはじめる。最初のうちは認知症のある人の声を代弁できるだろうと自分でも思っていたが、「症状が出ないのでは嘘になるのでは?」と思う。しかし、周囲からは期待はされ続ける。でも、症状は出ない。矛盾を抱え始める

2017年(58歳)

会合などで医師に意見を求めると「あなたは認知症じゃないかもしれないね」とも言われた。脳の画像に痕跡があっても症状が無いこともあることも様々な文献や研究を調べまくって知った
「じゃあ私はなんなんだろう。症状という専門知がないところで、認知症を語ったとしても、嘘になっちゃう。認知症の人として扱われても俺の場合は嘘になってしまう」と感じる。その矛盾を正直に訴えたとしても、「そうなんですか」と他者から深く理解がなされない

2017年(58歳)

一度当事者として名乗れば、認知症の人として見られてしまう現象が起きる。専門職からは一括りにされ、わからない人として違和感のある対応をされることもある
「専門職はそれなりに対応の仕方を勉強して、接し方を学んだのではないか」という思いがある
個人個人の違いがあるのだから、同じように接するのはどうなのか。この程度の接し方でいいだろうという接し方が粗雑な人もいることにも気づく
家族や世話人だけの中、ボランティアの方や介護職は表に出さないが、接し方を使い分けられていて、尊重を感じられないことがある。施設や当事者の会で起きがちだと思う。その人がどんな状態でも、病気や症状があるというだけで対応を変えられる。本人が尊重されていない

2017年(58歳)

医学的なことをさらに調べ、画像に所見があっても認知機能に影響がない人もいる「ナン・スタディー」の実例を知る
「ApoE4の遺伝子を持っているとアルツハイマーが出やすい」という説を知る。アミロイドPET、腰椎穿刺等の検査を受けることも検討するが、費用や体調の都合もあるり断念する
よしんば知ったとして、その先には今と変わりない生活が待っているだろう…といろいろ考えこむ

2018年(58歳)

UTCP石原孝二さん主催の社会人向け講座である、こまば当事者カレッジ夏期コース「認知症を考える」に参加する。当事者の樋口直美さんの話、イヴ・ジネストさんのユマニチュード、当事者研究に触れ、強い関心を持つ
認知症の診断を受けたが、症状がない状態のジレンマを当事者研究する

2019年(59歳)

医学的なこと。介護の体験、勉強。老化という中で自分を捉える。
自分がわからなくなるまでに何が起きるのか。徐々に全体が悪くなっていく。
自分を捉えることができない。だからこその苦しみ。
本人としての人間性、情動は残る。直接接する人がその人の瞳越しに受け取ることができる。
本人の言葉はもう出てこないが、少なくとも何がしかの心の揺らぎがあるのだと思う。
そうした時に、何ができるのかな。
そう思い、マインドフルネスや音楽療法に関心を持つ。
自分がなくなることへの気持ち。そのことに思いを馳せることが、そうなるにしても、それまでの道のりに良い影響を及ぼすのじゃないかと考えている

2021年(61歳)

記憶より、感覚の異常の自覚が大きい。昨年「誤作動する脳」を読んで感覚の異常が2年以上前からあることに気づいた。耳鳴り・寒暖・味覚・嗅覚が鋭すぎたり鈍すぎたり(コロナではない)するでも幻覚幻視はないのでレビー小体型認知症の診断もおりないだろう
今は自分自身、現状は認知症ではないと思っている。でも病理変化は画像も残っている。去年からはリコード方も一部実践
ということで、私はバリバリ「認知症に備える人」となっている

人生・生活の喜び

1

発症前後で変わらない喜び

長男長女が成長して、一人の成人した人間として付き合っていくことができること

2

発症後の喜び

学ぶこと
医学的なメカニズムや治療の可能性、ケアの可能性、哲学としての捉え方を学び世界が急激に広がる

3

発症後の喜び

多様な人の行く多様な学びの場に出ることで、認知症に限らない当事者の知人が増える

4

発症後の喜び

行動範囲が格段に広がった
診断前は地元で育ち、暮らし、働く人生を送っていた

5

発症後の喜び

書籍、インターネットなどを駆使して情報を集めまくる

今後やってみたいこと

こまば当事者カレッジのような学びの場に出ていくこと。
来年の3月で定年退職して、再雇用が決まってくれればいい。
雇用形態が嘱託になれば、給与が下がる。
経済的に余裕がなくなるが、そうした学びの場に出る交通費が捻出できればいい。

自分はまだ起こっていないことから余波を受けている。
俺、捉え方おかしいのかな、と思っちゃうんだけど。
自分のような人は、一定数いるんじゃないかと思っている。
必要は必要だと思うけれど、社会的に受け入れられるかどうか。

この立場を利用して稼ぐことができたらいいな。
自分のこの状態に価値を見出してくれる人がいればいいけれど。
だったら、今の状況や体験を活かせないかな。

きっかけとして勉強して、誰かと話をできれば、自分が気づかされるし、失敗だったか無駄だったか少なくとも確認はできる。

生活課題

心身機能障害

社会へのメッセージ

認知症と向き合う人たちが、認知症のみでなく、多様な分野に視野が広がっていけばいい。
それははじめは一人と一人の間で話されたひとつのことであっても、そんなちっさな単位での関わりが重なりあって、複数になって、やがて社会に開いていくのかな。
困難の種類や立場を越えて、分かり合える。対話が開いていく。
そのことが大事なんじゃないかと。

社会に対して。そんなこと、考えたことなかったけどね(笑)